島津久光
安政5年(1858年)7月16日に斉彬が死去すると、遺言により忠教の実子・忠徳(翌6年2月、将軍・徳川家茂に謁見し、その偏諱を授かって茂久と改名。後の忠義)が12月28日、藩主に就任する。茂久の後見を務めた斉興が安政6年(1859年)9月12日に没すると、藩主の実父として忠教の藩内における政治的影響力が増大する。文久元年(1861年)4月19日に宗家へ復帰、「国父」の礼をもって遇されることになり、藩政の実権を掌握する。23日、通称を和泉、諱を久光に改める。文久2年(1862年)2月24日、重富邸から新築の鹿児島城二の丸邸へ移る(以後、藩内において「副城公」とも称される)。
藩内における権力拡大の過程では、小松清廉(帯刀)や中山中左衛門等とあわせて、大久保利通・伊地知貞馨(堀仲左衛門)・岩下方平・海江田信義・吉井友実等、中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーを登用する。 ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは終生反りが合わず、文久2年の率兵上京(後述)時には、西郷が無断で上坂したのを責めて遠島処分(徳之島、のち沖永良部島に配流)にし、藩内有志の嘆願により元治元年(1864年)に西郷を赦免する際も、苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、のちのちまで両者のあいだには齟齬があった。
文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する(3月16日鹿児島発、4月16日京都着)。 朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を企図する久光の運動は、亡兄・斉彬の遺志を継ぐものとされた。京都滞在中の4月23日、伏見(現京都府京都市伏見区)の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を粛清する寺田屋事件を起こす。
朝廷に対する久光の働きかけにより5月9日、幕政改革を要求するために勅使を江戸へ派遣することが決定され、勅使随従を命じられる。幕府への要求事項として、以下の「三事策」(1.は長州藩、2.は岩倉具視、3.は薩摩藩の各意見を採用したもの)が決められた。
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